2004/04/23(金) 01:03
それでも心は、プライドは、傷つき疲弊していく

外郭団体での一日はとてもゆるやかだった。
どうしてバイトを募集したのだろう?というぐらい暇な時もあった。
中核の20代後半〜の職員は確かに残業代目当てではない残業をしていた。
が、中高年管理職や入ってまだ2〜3年の職員は定時上がりを常としていた。
別に定時で帰ることには異論は無かったけれど、緊張感の無い仕事の仕方、
全体的に漂うほのぼのさも総合するとうらやましい反面、怒りをも覚えるものだった。
(ただ官公庁系では時期的に繁忙期がひどく忙しいところもあり、この部署が
それに該当するらしかったことは付け加えておきたい。)
そんな中、仕事をしている最中に就職の話を年齢の近い職員とちらほら話をすることも
あったのだが、言葉の端々に「自分はここに現役で入って民間企業で働く友人の体験談みたいな
ことを経験しなくて本当に良かった!」というコメントがにじみ出ていた。
こういうことに加えて自分が置かれている(自分で置いたともいえる)境遇から
ひどくムカつきを覚えることを感じながら過ごしていた、そんな頃。

以前受けた会社から2次面接の連絡が入ってきた。
前半はぐだぐだだったけれど、後半は挽回できたようだったあのベンチャーだ。
すぐさまに面接に行く旨を連絡し、面接に行く日になった。
応接室で以前面接した管理職の人+更に上の人がとの2対1の面接だった。
何を聞かれるのだろう?ドキドキしていた。


「内定です。」
「ハァ????」


訳が分からなかった。
まだ何も言ってないのになんで???
どうやら2次面接は形だけで1次の筆記+面接を通過すれば採用だったらしい。
ただし、職種や募集形式によっては2次もあるとのことだったが、、。
その場でパニックになって絶句していたら、人事課長さんが
「信じられない??」
「じゃあハイコレ」
と内定書類を渡してくれた。
聞くところによれば筆記試験はまずまずで、面接中の「何でもやる」という言葉と
その態度、あと持っているスキル+潜在能力等々を加味して決めたらしい、、、。

認められた。必要とされた。

その2点を形として実感できたことが何よりもうれしかった。
返事をその場で言いたかったけれど、とりあえず保留にして考えることにした。
親に報告。
良かったとは言うものの、訝り心配する母親+なだめる父親の反応だった。
3日後にその会社に行くことを伝えた。2月より晴れてその会社の一員として働くことになった。

その次の週、職場で働いてると携帯電話に留守録が残っていて至急連絡下さいの
メッセージがあった。声の主は内定をくれた会社の次に面接を受けた会社だった。
連絡を入れると「採用したい」とのこと。
驚いた、数ヶ月間全くもってどの会社からも相手をされなかった自分がこうやって
内定を連続してもらえている現実を。
中学高校ともてなかった自分が大学生になってから何人かの女の子から誘われて
内心とてもびっくりしていたことを久方ぶりに思い出していた。

「もしも内定をくれた順番が逆だったらそちらの会社を選んでいました、本当です。
僕は多分そちらの会社を選ばなかったことを後悔すると思います。けれど、内定を
くれた会社も同じように働いてみたいところだったんです、申し訳ありません。
後、僕が言うのもナンなのですが、僕と同じように面接試験を受けた人で僕の他に
リストされている人にチャンスをあげてください。」
全て本心だった。内定をくれたこともそうだったけれど、自分が辞退したことで
その会社で働きたい他の人にチャンスが行くことも喜ばしかったからだ。
そうしたら相手先も「乗った船は違えど同じ海を行く帆船なのだから向こうで頑張ってネ」と
言ってくれたことがまたうれしかった。

そうしてバイトをしていた職場を去る日になった。
夜、居酒屋で形ばかりの送別会を開いてくれたものの、どこか空虚だった。
酒が入り、国内情勢の話や景気の話になった。
「君は大変だネー。」と赤ら顔の上司は言って愉快そうに笑った。
他の職員も皆同じだった。
見返してやりたいと思った。
でも普通に就職が決まっただけでは無理だった。
それこそ一生食うに困らない収入か、とてつもなく難しい試験に通ることじゃないと
鼻を明かせそうには無かった。

こうして2002年は幕を閉じた。

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